会報2015年3月25日(水)本年度第33回(通算2172回)例会


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2015年3月25日(水) 本年度第33回(通算2172回) 例会 

 

点鐘、ロータリーソング、ロータリーの綱領(第一例会のみ)、スマイル握手】

会長あいさつDSCF9157

23日に生まれ育った長沼の基盤整備が終わった土地を見に行ってきました。16歳と11カ月生活した場所です。積雪もなく、黄色い花の福寿草が一面咲き乱れていました。この福寿草は私が小学生の低学年の頃馬追山から採取してきたものを移植したものです。50数年の歳月を経て数百株にまで増えて今年も咲き乱れていました。先週の木曜日3月19日千歳ロータリークラブ、千歳ロータアクトとの合同例会があり、私と敦澤エレクト、弘中委員長、西村会員の4名で行ってきました。例会終了後、毎年行われている恒例のボーリング大会が行われました。久し振りのボーリングで制球が定まらずスコアはよくありませんでした。弘中会員だけは別格で、スコアも良かったです。次の日から筋肉痛に数日悩まされました。

本日のお客様

オブザーバー 鷲田政昭 様

お客様スピーチ

恵庭生まれの恵庭育ちですが、勤務が室蘭の日本製鉄で15年前に恵庭に戻り、現在(株)拓恵で会長をして居ります。縁が有りまして入会する事に成りましたので宜しくお願い致します。

(・・・尚、入会式は4月に入ってからと成ります・・・)

幹事報告

・国際ソロプチミスト恵庭よりチャリティーディナーショーのご案内(5/15)

・メモリアルむらもと様より横断幕及び垂幕印刷事業終了のお知らせ

・2015~2016国際RC財団奨学金奨学生の募集・推薦のご案内

・地区RYLAセミナー開催のご案内(5/16~17)

・千歳RAC第13回定例会のご案内(4/2)

委員会報告<職業奉仕委員会  弘中司嘉子委員長>

4/15の千歳航空自衛隊・第二航空団での見学会は車の出入りが厳しいので後日、正式に皆さんにお知らせ致します。

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委員会報告<川原会員>

現在恵庭市の緑の推進委員で、市長表彰10数名の予定で当ロータリーでも市民植樹祭に参加申請をしています。

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委員会報告<明治安田生命保険 佐藤竜也会員>

この度、浅草支店に転勤することに成りました。1年9ヶ月の短い間でしたが色々お世話に有り難う御座いました。一番の思い出はオンコ祭りで、真っ黒に成りながら焼き鳥を焼いた事です。後任は旭川から片桐と云う者が参ります。必ずロータリーに入会する様、言い伝えて有りますので宜しくお願い致します。

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本日のプログラム<会員卓話>

★ロータリー財団委員会 久野委員長DSCF9175

ロータリー財団の卓話と云う事で宜しくお願い致します。本年度の寄付目標の約80%程集まりました。あと3ヶ月有りますので宜しくお願い致します。又、玄関・裏口とも錠を掛けて居りませんので、いつでも寄付が出来ます。どうしても来られない場合は直接担当者が行きますので、その時は100$笑顔で宜しく。

1.ポリオを撲滅する、今こそ目標を達成しよう。

2.継続的な寄付を通じて、ロータリー独自か唯一の慈善事業を支援する。

3.持続可能な教育的・人道的プロジェクトに参加する事で、新しい補助金プログラムの発展を確かなものとする。

4.ロータリー平和センタープログラムの推進と広報を通じて世界理解・親善・平和を育む。

5.ロータリー財団の未来の健全性は自分達に掛かって居る事を強調する。

 

本日のプログラム<会員卓話>

★米山奨学会委員会 三浦委員長DSCF9186

「ハイド ハイドウ してやるぞ」

私達生徒に兎を飼うことが奨励されました。毎日草を刈って食べさせ大きく育てて、冬の時期になったところで大人の人に屠殺をしてもらい、毛皮を板きれに張り付けて乾燥させ、防寒用の毛皮として軍隊に供出をしたのです。厳寒の北支那方面で戦っている兵隊さんに送るためでした。皮を剥いだ赤身の肉は、食料が不足となっていましたが、自分達の育てた兎であり可愛いそうで食べる気にはなりませんでした。食料増産の授業として、学校の校庭に学年ごとに畑を耕して、馬鈴薯やソラマメ等を栽培して、収穫後は全員で美味しく食べました。また、高学年になると村内農家の援農作業にも駆り出されて畑の草取りや収穫作業等で汗をかきました。授業内容にも、即戦力となるように手旗信号やモールス記号の訓練が加わりました。今でも、い、・―、(伊藤)。ろ、・―・―(路上歩行)。は、―・・・(ハーモニカ)と覚えております。また、上官の命令は絶対服従と言う軍隊教育?で、先生の言う事を聞かないと直立不動で往復ビンタを食らいました。クラスの誰かが失敗すると、全体責任となり全員がビンタや立たされる罰等を受けました。昭和二十年(西暦一九四五年)春、樺太庁立豊原中学校を受験することになりました。日常は生徒に対して厳しさが目立つ怖い先生でしたが、受験日が近くになると補習授業ばかりでなく、夜間に受験生を自宅に集めて試験勉強を教えてくれました。試験当日の口頭試問で印象に残っていることがあります。大東亜戦争開戦の発端ともなった「ABCD包囲網」について質問をされたことでした。アメリカ・イギリス・中華民国・オランダが、日本の資産凍結、石油・鉄鉱等の禁輸、貿易制限等の経済封鎖をした事ですが、その事についての知識がありませんでした。「四つの国が日本の四方を包囲して攻めている事である」などと、しどろもどろで本意と違う答えをしてしまいました。だが、幸いにも合格をする事ができました。早速,戦地に居る父に豊原中学校に合格したことを知らせる喜びの手紙を出しました。だが、待てど暮らせど誉めてくれるであろうと期待した、父からの手紙は来ませんでした。

それもその筈、二月十九日から三月下旬まで、圧倒的な米国太平洋艦隊による上陸攻撃を受けて玉砕をした小笠原諸島「硫黄島」の、南方諸島海軍航空隊の一員として熾烈を極めた攻防戦に従事して戦死をしていたのです。新学期が始まり、憧れの白線三本の着いた豊原中学校の学生帽(戦闘帽)を被り、ゲートルを撒いて颯爽と登校を致しました。先ず、校門をくぐり、奉安殿に敬礼して、校庭に立っている麦わらを撒いた鬼畜米英を模した数本の棒柱に向かって、用意されている重い銃剣を構えて、「ワー」と大きなかけ声を挙げながら「エイ・エイ」と突き刺して、駆け足で校庭をひと廻りしてから、校舎に入る事を許されました。大志を抱いて?入学した中学校でしたが、戦局が厳しくなり、生徒が校舎で勉強をする等の余裕が無い切迫した国内状況でありました。入学後、校舎内の教室で学科受業が出来たのは数日間だけでした。雪解けとともに軍事訓練や、中学校の農園「天行園」の開墾作業に従事させられました。また、青年男子が軍隊に召集されて労動力不足となっている公営精米工場の米俵整理作業や、航空機の燃料とする松根油精製釜のレンガ運搬作業に勤労動員をさせられました。八月九日、突如、ソビエト連邦共和国が、我が国との不可侵条約を一方的に破棄して宣戦を布告、私達の住んでいる樺太も重戦車を先頭にして、近代的連発式の銃火器を装備したソ連軍が、大挙して北緯五十度の国境線を超えて侵攻して来ました。八月十五日、国境地域では、樺太島民を守るため日本軍守備隊兵士の方々は、劣悪な武器で一身を顧みずに、ソ連軍の南下を阻止すべく必死に応戦、激しい戦闘を行っておりました。私達南部地域に住む豊原中学校の生徒も、ソ連軍が攻めてきたときには応戦をするため、戦闘に備えて竹やり等を準備して闘う覚悟をしておりました。戦況は不利で徐々に追い詰められソ連軍が攻め込んでくる状況であったのですが、何故か、私達一年生は、相変わらず王子製紙豊原工場内で、レンガ運びの作業をやらされておりました。正午に、天皇陛下の重大放送があるので自宅のラジオで放送を聴くよう帰宅を命じられました。家は、隣町に在り、放送時間まで帰宅出来ないので途中の知人宅で放送を聴きました。初めて耳にする、天皇陛下の抑揚のある言葉は、雑音で聴き取り難かった事と、ポツダム宣言受諾の意味が判らず、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、」戦争に励めよと解釈をいたしました。その後、上級生に会い戦争に負けたのだと教えられ、落胆と、敗戦後の日本人の処遇、自分達の生活はどうなるかの心配、もう戦争で闘は無くてもよいという安堵感等、複雑な気持ちになりました。だが、樺太の戦いは終わる事無く、さらに厳しい戦争が続いて行くのでした。八月二十日、自宅待機をしている私達の街の、西方に連なる樺太中央山脈の方角より、晴天であるのに雷鳴のような響きが聴こえていました。真岡町(現ホルムスク)を、ソ連軍が艦砲射撃をしながら上陸して、わが軍の停戦交渉軍使を射殺、無抵抗の市民を殺戮して、豊原市(現ユジノサハリンスク)に向かって侵攻していることを知りました。八月二十二日、知取町で日本・ソ連両軍が、樺太の戦闘終結交渉を進めている、その日の午後、ソビエトの宣戦布告以来、私達の住んでいる南部地域に、初めて複数のソ連軍爆撃機が飛んで来るのを目にしていました。樺太庁所在地の豊原市方向に飛んで行くのを眺めていますと、突如機首を下げてパラパラと黒い塊を落としました。とたんに黒煙が揚がるのが見えました。大変なことが起きたと愕然といたしました。一週間前に、日本は降伏を宣告しており、白旗を掲げている無抵抗の街を爆撃して、何故、多数の一般市民を殺戮するのかソ連軍の暴挙に怒りを覚えました。後日、分かった事ですが、ソ連は日本との戦闘を継続させて、北海道にまで侵攻して、留萌と釧路を結ぶ北半分を占領する計画であったのです。八月二十三日、遂に、樺太庁所在地の豊原市(現ユジノサハリンスク)に、多数の重戦車を先頭にして、未だ殺気の残る赤い顔をしたソ連軍兵士部隊が意気揚々と進駐をしてきました。以後、故郷の地樺太は無念にもソ連軍に占領されて異国の領土となり、暗くて、陰湿で、自由も無く、その上に食料も乏しく、将来の希望も見出せない共産党社会主義政権下で二年間も抑留されて、母子六人は、祖国日本に帰る事も出来ず、敗戦国民としての悲哀を感じながら、過酷な窮乏生活を強いられる事になりました。小国民の戦争は、自分を育んでくれた国家の存亡を賭けた戦いに、一身を捧げるという志を果さぬうちに、建国以来の敗戦という結果で終結を致しました。

 

誕生日プレゼント贈呈<親睦活動委員会 作田会員>

2月生まれ 会  員 : 小原会員・水野会員 

      会員婦人 : 石川婦人・杉本婦人・水野婦人

3月生まれ 会  員 : 菊池会員・石川会員・大場会員・佐藤会員

      会員婦人 : 岩下婦人・久野婦人・横手婦人

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ニコニコボックスの紹介

会 員 名 提  出  理  由 ニコ数
前田利和 鷲田さん これから宜しくお願いします
竹田一則 来週欠席します
佐藤竜也 1年9カ月 お世話になりました
川原光男 ご無沙汰です
何かとお世話になります
水野 凡 プレゼントありがとうございます
久野 等
杉本三之助
横手義信
寺本幸司
石川俊則

合計15口でした。ご協力有難うございました。

 

本日の出席状況

出席者 27名、メイクアップ 7名、合計 34名  82.92%

 

次週のプログラム

4月1日(水) 雑誌月間 会員卓話 雑誌・広報・プログラム委員会

        入会式(鷲田政昭様)

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